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2004年活動報告
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2004年11月10日
日中緑化推進議員連盟

11月10日 日中緑化推進議員連盟として会長の亀井先生、そして松岡先生とともに、来日中の周強中国共産主義青年団中央委員会書記処第一書記と中華全国青年連合会(全青連)メンバーの皆さんと会談いたしました。小渕が9月に訪中した際にも皆さんにお会いしているので2ケ月ぶりの再会となりました。全青連は日中緑化委員会の中国側実施機関となっております。

2004年11月10日
日中緑化推進議員連盟

11月10日 周強先生と。

2004年9月3日
北京訪問

9月3日 北京師範大学を見学しました。約15000人の生徒の内訳は8000人の学部生と6000人の院生、1000人の留学生で、学部生、院生は共に95%を越える就職率です。15000人が一堂に学び、生活も共にする為、敷地内には寮棟が沢山あります。一つのコミュニティーができあがっていて、そのスケールの大きさには圧巻です。

2004年9月3日
北京訪問

9月3日 中国の学校は9月に始まります。ちょうど新入生歓迎の看板があちらこちらにかかっていて華やかな雰囲気でした。

2004年9月3日
北京訪問

9月3日 北京市内でよく見かける中央分離帯。人々はこれがないと横断歩道や信号の無い所でもお構いなしに渡ってしまうので事故が絶えません。東京で言えば環八や山手通りの様な大きい通りです!


2004年9月3日
北京訪問

9月3日 外交部李肇星(リチョウセイ)部長と会談。日本で言う外務大臣の方です。小渕から団の趣旨や日本から101名で訪中した旨を伝えると、李部長から「101 は中国では非常に縁起の良い数です。」とお言葉を頂きました。歴史問題や中日交流について踏み込んだ会談になりましたが、李部長のあたたかなお人柄を感じさせる会談となりました。

2004年9月3日
北京訪問

9月3日 昼食のコースに出てきた、ハンバーグに見えるナマコです!

2004年9月3日
北京訪問

9月3日 コースの締めくくりに出てきた皿一杯の餃子です。日本では最後に杏仁豆腐が一般的ですが、北京ではあまりお目にかかりません。



2004年9月2日
北京訪問

9月2日 周強 中国共産主義青年団中央委員会書記処第一書記との会談の後、人民大会堂にて歓迎会が開かれました。日本青年交流代表団 団長として御礼の挨拶。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 北京で今ちょっとしたブームのザリガニを食べに行きました。街の通りにネオンで彩られた何軒ものザリガニ屋がひしめきあっています。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 色々な味付けがありますが、とても辛いのを選んだせいで、殻をむく手までしみてきます。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 人民大会堂に到着。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 全国人民代表大会 王兆国副委員長に前夜101名で署名した団旗を進呈致しました。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 記念撮影。全員入りきりませんでした・・・ 前段中央が王副委員長です。


2004年9月2日
北京訪問

9月2日 王兆国副委員長との会談では若者同志の、また世代を超えての中日交流の重要性について伺う事ができました。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 会談後、地元のテレビ局の取材を受けました。何億人の人が見るのでしょう!

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 中日友好協会 王效賢(オウコウケン)副会長と会談。王副会長は1972年日中国交正常化の際の田中角栄首相と周恩来総理の日中首脳会談において、周総理の通訳を務められました。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 とても優しくあたたかい面持ちで迎えて下さり、中日交流について深くお話しを伺う事ができました。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 中日友好協会の皆さんと。皆さん本当にあたたかく迎えてくださいました。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 北京のマック!

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 昔の駅です。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 中国国家体育総局を訪問したところ、玄関を入った正面でこんな歓迎を受けました!

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 于再清(ウサイセイ)スポーツ次官と会談。はじめに小渕から于再清次官が国際オリンピック委員会(IOC)総会で理事に選任された事への祝辞を述べました。于再清次官からはアテネオリンピックの報告と、4年後の北京オリンピックへ向けての様々な取り組みについての説明がありました。2007年には全てのスタジアムを完成させて、残り1年かけて全施設の試運転をする計画です。

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 北京オリンピックは2008年8月8日開幕、8月24日閉幕予定です。


2004年9月2日
北京訪問

9月2日 足もとの絨毯を見たらこんなスポーツ柄でした!

2004年9月2日
北京訪問

9月2日 建設中のアパートです。お洒落でしょう。北京も住宅難でみんな何十年もローンを組んで購入します。

2004年9月1日
北京訪問

9月1日 「2004年日本青年交流代表団」の日本青年101名の団長として中国 北京を訪問致しました。1998年11月に江沢民前国家主席が訪日した際「青少年交流の一層の発展のための日本政府と中華人民共和国政府との間の枠組みに関する協力計画」が父 小渕恵三との間で署名されました。 その中で、1999年から2003年までの5年間に1万5千人規模の青年の相互訪問・交流の実現に向け努力することが合意され、今年新たなスタートの年となりました。日中間の若い草の根レベルの交流として国際的にも大変高い評価を得ています。

2004年9月1日
北京訪問

9月1日 北京の一般的なアパートです。

2004年9月1日
北京訪問

9月1日 ほとんどの家のベランダはガラスで覆われています。こうすれば少しでも『部屋』として使えるスペースが増えるからだそうです。

2004年9月1日
北京訪問

9月1日 首都大酒店(ホテル)に到着後、結団式です。

2004年9月1日
北京訪問

9月1日 向かって左は谷本龍哉先生、右が中華全国青年連合会 倪健副秘書長、そのお隣が山本香苗先生です。

2004年9月1日
北京訪問

9月1日 団旗にひとりひとり署名をします。

2004年9月1日
北京訪問

9月1日 101名の団員の名前が書かれました!

2004年8月22日
アメリカ・ブラジル

8月22日 群馬県出身の野村さんが理事を務める特別養護老人施設「あけぼのホーム」を視察しました。日本と同様、ブラジルでも高齢化問題に直面しており対応する施設が必要となっています。日系人どうし助け合って生活しています。

2004年8月22日
アメリカ・ブラジル

8月22日 「あけぼのホーム」で働くJICA(青年海外協力隊)から派遣されたボランティアの方です。笑顔で元気に働いていました。

2004年8月22日
アメリカ・ブラジル

8月22日 高齢化問題についての様々な取り組みや問題点、ご意見を伺う事ができました。

2004年8月22日
アメリカ・ブラジル

8月22日 この「ブラジル日本語センター」では、日本語教育、教員教育、日本文化など様々な日本についての情報発信を積極的に行なっています。

2004年8月22日
アメリカ・ブラジル

8月22日 ほとんどの方々が会社経営などの傍らで、ボランティアとして働いています。

2004年8月21日
アメリカ・ブラジル

8月21日 イグアスの滝は多くの観光客で賑わっていました。

2004年8月21日
アメリカ・ブラジル

8月21日 かなりの水量で…。

2004年8月20日
アメリカ・ブラジル
8月20日 ガルシア大統領補佐官との会談。ブラジルにおける日系人への高い評価を頂きました。

2004年8月20日
アメリカ・ブラジル

8月20日 ブラジルの国会議事堂です。向かって左の半円∩が上院、右の半円∪が下院です。

2004年8月20日
アメリカ・ブラジル

8月20日 ブラジルの女性議員の方と。

2004年8月20日
アメリカ・ブラジル

8月20日 本会議場内で。(小渕は右端)

2004年8月20日
アメリカ・ブラジル

8月20日 本会議場に見学に来ていたブラジルの学生さん達と。

2004年8月19日
アメリカ・ブラジル

8月19日 2008年は日本人のブラジル移民100周年の年です。近年、議員交流が減っていた日本とブラジル間ですが、今回は視察も兼ねながら4年後に向けた基盤づくりをできる様、様々な意見交換を行ないました。


2004年8月19日
アメリカ・ブラジル

8月19日 移民資料館で父 小渕恵三が外務大臣としてブラジルを訪れた際の写真を見つけました。

2004年8月19日
アメリカ・ブラジル

8月19日 イビラプエラ公園内の開拓前没者慰霊碑へ、当時の先人の皆様のご努力、ご苦労を偲び献花に行きました。

2004年8月18日
アメリカ・ブラジル

8月18日 パーセル米国議会調査局にて年金制度の勉強会に出席しました。

2004年8月18日
アメリカ・ブラジル

8月18日 国会議事堂です。

2004年8月18日
アメリカ・ブラジル

8月18日 ホワイトハウス前にて。

2004年7月25日
合言葉はTRUST! - ボツワナ・ザンビア・モザンビーク・スワジランドの旅 -


3年越しの念願であったアフリカ行き、2004年7月13日から25日まで、日・AU議連と青年海外協力隊等人的国際貢献に関する小委員会(事務局長を務めさせていただいている)の視察団として松下忠洋団長の下、森岡正宏衆議院議員、福井照衆議院議員(ボツワナのみ)、外務省川田氏、JICA中原氏と共に南アフリカ、ボツワナ・ザンビア・モザンビーク・スワジランドを訪問した。
 先ず初めに、大変な強行日程にもかかわらずそれぞれの国において大統領を始めとする要人との会見のセッティング、また青年海外協力隊を始めとする現場視察、意見交換等のセッティング他大変ご苦労頂いた各国駐在の大使、外務省、JICA他関係者の皆様に心より感謝を申し上げたい。お陰様で2週間、どの1日をとっても1日はおろか一時の無駄な時間もなく実に充実した毎日を送ることが出来た。
 さて、何から先ず述べていいか困ってしまうほど今回の旅はあふれんばかりの様々な思い ―喜び、今後の期待・課題まで― 胸一杯に詰め込んで帰ってきた旅となった。私にとっては初めてと言っていい(これまでエジプトしか行った事がない)アフリカの大地への旅で、先ず一ついえることは、本当に行く前と帰国後の今とでは印象が全く違うということ、そして「アフリカ」と一口に言ってもそれぞれ国ごとにおかれている状況は全く違い、これも一つ一つ訪れ、見てみないと、行って見ないとわからない事ばかりでありアフリカの奥深さを感じた。
 そこで、所感を項目別に以下に整理して述べさせていただく。


青年海外協力隊を始めとするJICAの取り組みについて


現在ボツワナにて31名(SV5名)、ザンビアにて55名(SV10名)、モザンビークにて9名(スワジランドは現在要請を受け検討中)の青年海外協力隊が派遣中であり、それぞれの国において活動の現場視察や多くの隊員との交流を持つ事が出来た。また、各国において大臣等から彼らに対しての高い評価、謝辞を頂く事ができ、モザンビークにおいてはシサノ大統領より、ぜひ近いうちに隊員たちに会い意見を聞きたいとのお言葉までいただいた。
 隊員たちはそれぞれ奥深い現場まで入り込んで現地の人々に溶け込み、悩み考えながらも力を尽くしている様子が伝わってきた。他国の支援に比べ、上から物申すのではなく、一人一人がその国の人たちと一緒になって働くその姿勢が現地の人からの信頼と共感を呼んでいるようであった。彼らのまさに草の根の支援こそが我が国の国際貢献の足腰となっているということを強く感じた。
 また、今回、広島大学大学院の講座の一環として、協力隊参加による単位取得という新たな試みにより、現地に滞在する広大の学生さんたちにも会うことが出来た。JICAとタイアップして協力隊として働く活動を研究として評価するという広大の取り組みに感謝したい。実際に現地で働くことにおいては想像以上に大変であると思われるが、JICA側のフォローアップも含めて今後の活動を見守っていきたいと思う。(できれば他大学にも広げていきたい)
 3カ国においての協力隊へのニーズは多種多様であり、一人一人に決断と責任が要求されている。よく言えば自分の仕事を工夫し、発展させる事もできるが、生活に慣れるだけでも時間のかかるアフリカの地において2年間という時間はとても短い。雲をつかむような所もあり、フラストレーションがたまることも多いのではないかと思う。一つのプロジェクトを2代、3代と積み重ねて発展させてきたような分野は仕事がしやすいようにも見えたが、新たなニーズが発生しているのも確かであった。彼らの意見で印象的だったのは「自分達は好きで来ているのだ」と笑顔で言っていた事。とても若者らしいさわやかな責任感を感じた。また、大変な事はないかと聞くと「どこでも一緒です。日本でも大変な事はあるし、いい人も嫌な人もいます。」と言われてしまった。頼もしい限りである。そんな協力隊員に私たちは「あなた方を誇りに思う。あなた方は日本国の国際貢献の一翼をしっかりと担っている」とメッセージを伝えてきた。各国から協力隊のような人的支援は確実に求められていること、それに答えるための努力を尽くしている協力隊員の姿に、一人の人間の力とはなんと大きなものであるかということを実感した。


ODA等日本の支援の現状とこれから


各国よりこれまでの日本からの優れた技術、様々なインフラ整備支援に対する良い評価と御礼があった。しかし、どこの国においてもまだまだインフラ整備は充分ではなく、更なる日本の支援に対する期待を寄せられた。
 ボツワナにおいての飛行場まで続く道路、ザンビアの小中学校、スワジランドの小学校などどれも有効に使われていることを実感した。将来的には大規模な橋の建設など大きな課題はあると思うが、数百万円の単位でできる事業も沢山あり、その国ごとニーズはどこにあるのかを見極めた迅速かつ柔軟な対応とお金の使い方が今まで以上にきめ細かくできればと思う。
 アメリカ、ヨーロッパを始めとする多くの国々がアフリカ支援に手を挙げている中、これまで日本がアジアや他国に対して支援してきた方法とはまた別の「アフリカのニーズに合致する日本らしい支援」とは何なのか。ある程度テーマを絞り優先順位をつけていくこともこれからの検討課題であると思う。
 また、スワジランドにおいてはJICAによる研修生制度により1〜2ヶ月の研修(農業・情報・衛生等)を日本で行ったスワジランド人の懇親会に出席した。誰もが日本に対し良いイメージを持ち、日本で学んだ事を母国で活かそうと懸命であった。彼らは今後共日本とスワジランドを結ぶ素晴らしい架け橋になってくれると思う。こうした人的交流により将来的にも2つの国の友好関係が更に発展していく事を感じることができる取り組みだと思った。
 そして最後に一つ。4カ国を通じてアフリカ全土の大きな問題と言えるのがHIV/AIDSのことだ。感染率はボツワナにおいて約37%、ザンビアでは約16%、平均寿命は約40歳という具合であり切実な状況である。いくら人材育成をしても働き盛りの若者が急に亡くなったり、また、ザンビアのカシシの家においてはここ10年の内に100人の子供が亡くなっている。これからのこの国を担っていく若者たち、また国の宝である子どもたちがHIV/AIDSに冒され亡くなっていく現状を目の当たりにし、私たちはショックを隠しきれなかった。何かしてあげたい。しかしいったい何ができるのであろう。
 これまでも日本は草の根や無償資金により、技術等の協力をしてきている。しかし抜本的解決のためには、女性の地位向上を始め、意識改革を喚起する教育の改革が大切である。HIV/AIDSの問題の大きさに愕然としつつも、日本に何ができるのか、今後も引き続き解決策、支援策を探っていきたい。


要人表敬


各国とも大統領・大臣を始めとする多くの要人に表敬でき、松下団長よりTICADIIIへの出席に対する御礼、11月のTICADアジア、アフリカ貿易投資会議への参加をお願いした。  また、4ヶ国すべてにおいて2004年の国連安保理非常任理事国選挙に対して大変好意的に日本への支持をご示唆頂いた。いずれの国においても政治の安定が今後の経済的な発展に欠かせない事を実感しており、特にモザンビークにおいては政治によって何事も平和的に解決を見出す事の重要性をとくとくと述べていたのが印象的だった。12月には大統領選挙と総選挙が行われる予定。結果を見守りたい。またスワジランドにおいては現在憲法の草案ができたところであり、いかにして国民の意見を反映させるか、すべての国民が参加できるような憲法を今年中には完成・実施させたいとのことであった。


まとめ


松下団長のもと、これまで多くの先輩の方々が築いてきた日本・アフリカの信頼関係を実感し、それを更に発展させる事ができた旅になったと確信する。松下団長の愛のある外交手腕を間近で勉強し、“信は国境を越える”ということを学んだ、今回の旅の合言葉は“TRUST”であった。今後もこの気持を胸に抱きつつ微力ながら日本、AUの友好関係に尽力していきたいと思う。



2004年7月24日
アフリカ・スワジランド

7月24日 日本企業のYKKの工場です。

2004年7月24日
アフリカ・スワジランド

7月24日 エランゲニ小学校です。建物は日本の援助により建設されました。費用は約200万円との事です。

2004年7月24日
アフリカ・スワジランド

7月24日 校長先生やPTAの方々と一緒に。

2004年7月23日
アフリカ・スワジランド

7月23日 この国は最大部族スワジ族を中心として国王が絶大な権限を持つ君主国家。中央がムスワティ3世国王です。

2004年7月23日
アフリカ・スワジランド

7月23日 ドラミニ経済企画開発大臣。

2004年7月22日
アフリカ・モザンビーク

7月22日 ナマアシャ中学校を視察。こちらの協力隊員は理数科の教師です。

2004年7月22日
アフリカ・モザンビーク

7月22日 中学校内には図書館もあります。モザンビークはポルトガル語を使用しますので、隊員たちも語学ではかなり苦労しているようです。

2004年7月22日
アフリカ・モザンビーク

7月22日 ボツワナ、ザンビア、モザンビークの3カ国で協力隊員の教師としての派遣が多いのは、現地の30代、40代の働き盛りの先生達がエイズによって亡くなる事が多く、教師が不足しているからなのです。

2004年7月22日
アフリカ・モザンビーク
7月22日 隊員の彼が一人で掃除をしたという理科室です。

2004年7月22日
アフリカ・モザンビーク

7月22日 牛乳パックとレンズで作った望遠鏡です。工夫の品に子供達も大喜び!

2004年7月21日
アフリカ・モザンビーク

7月21日 ディエゴ首相(女性)との会談。


2004年7月21日
アフリカ・モザンビーク

7月21日 シマン外務協力大臣との会談。

2004年7月21日
アフリカ・モザンビーク

7月21日 FRELIMO党のゲブーザ幹事長 です。12月の大統領選挙に立候補を予定しています。次期大統領とウワサされている方です。



2004年7月21日
アフリカ・モザンビーク

7月21日 マカモ国会第一副議長(女性)です。モザンビークでは議員全体の30%が女性です。ちなみに日本は10%前後です。

2004年7月21日
アフリカ・モザンビーク

7月21日 協力隊員は現在9名です。皆さん生き生きとしていました。

2004年7月21日
アフリカ・モザンビーク

7月21日 ケン玉日本一の男性隊員に技を披露して頂きました!

2004年7月20日
アフリカ・ザンビア

7月20日 ムワナワサ大統領を表敬。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 これは施設内にある亡くなった子供達の小さな小さなお墓です。母子感染でエイズにかかって生まれてきた赤ちゃんは10歳の誕生日を迎えられる事はほとんどありません。この空き缶一つ一つが愛される間もなく亡くなっていった小さな命です。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 日本の歌を歌って私達を歓迎してくれた笑顔の子供達。こうした子供達は施設に入れるだけまだ良い方で、町には孤児で家の無い子供達が沢山います。親の自覚、教育など国家としての取り組みを求めると同時に、エイズについてはアフリカだけでなく人類の大きな課題としてとらえ、日本もこれまで以上に協力しながら解決策を模索していく必要性を痛感致しました。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 施設内を協力隊員が説明しながら案内して下さいました。


2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 手と手を握り合ってご挨拶!

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 シスターのミルクを寄付しました。後ろは亡くなった子供達の写真です。「私達はあなたを忘れない」という気持を表しています。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 カシシ子供の家を訪問しました。ストリートチルドレンや孤児、エイズなど様々な問題を抱えた子供達約23-名が暮らしています。現在ザンビアは人口の約16%がエイズに感染しており、平均寿命も40歳前後という悲惨な状況下にあります。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 生後3週間のこの赤ちゃんの両親ももう亡くなってしまったとの事です。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 子供達の無邪気さが余計に胸を詰まらせます。いったい自分に何ができるのか、過酷な現実に対し皆、ショックを隠せませんでした。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 ここに暮らす子供達の6割がエイズに感染しており治療を受けています。しかし、この施設だけでもここ10年間で100人もの子供達が亡くなりました。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 この施設内でも協力隊員が活動しています。彼はストリートボーイズ20名の指導を担当しています。自分では恐い寮長だと言っていましたが、子供達はみんな彼が大好きな様でした。


2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 どの子供達もこうして近寄ってきて笑顔で手を握っていきます。愛情を欲しているのかもしれませんが、本来注がれるべき両親の愛情が受けられない子供達に胸が痛みます。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 アムサー・カトゥンダムワナムワンバ議長、議会の皆さんとの会談。日本、ザンビアそれぞれの議会制度の仕組みや相違点への質問など、活発な意見交換が行なわれました。ちなみに現在ザンビア議会の女性議員の数は160名中、約一割の19名だそうです。(小渕は右から二人目)

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 ザンビアで最初の女性議員の方です。現在保健担当の委員長をされていますが、いろいろご苦労も多いとの事です。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 プリンス・タカマド小学校の子供達と。高円宮殿下、妃殿下がご訪問された際の記念碑がありました。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 女性の協力隊員が体育の先生を務めています。こうしたストレッチや準備運動、整列など日本では当たり前の光景ですが、教えるのは大変な苦労だったそうです。

2004年7月19日
アフリカ・ザンビア

7月19日 11歳くらいのクラスのみんなと集合写真。

2004年7月18日
アフリカ・ザンビア

7月18日 チョマのセントパトリック小・中学校では協力隊員が先生に授業(理科の実験)の進め方を指導していました。

2004年7月18日
アフリカ・ザンビア

7月18日 初めて見る実験器具に生徒達は興味津々!

2004年7月18日
アフリカ・ザンビア

7月18日 教室の外でみんなで集合写真。


2004年7月18日
アフリカ・ザンビア

7月18日 キリンのお土産屋さん!壮観です…。

2004年7月18日
アフリカ・ザンビア

7月18日 現在ザンビアには55名の青年海外協力隊と10名のシルバーボランティアの皆さんがご活躍されています。女性の隊員の方々が民族衣装を着て登場して下さいました。

2004年7月17日
アフリカ・ボツワナ

7月17日 ボツワナからザンビアへの国境はこうした小さな船で渡ります。ボツワナ カズングラ村から渡河10分でザンビア カズングラ村へ。お世話になったボツワナの皆さんとのお別れ!ありがとうございました。

2004年7月17日
アフリカ・ボツワナ

7月17日 ビクトリアの滝で絶景の中、一行全員ずぶ濡れとなりました。

2004年7月17日
アフリカ・ボツワナ

7月17日 虹に向かって橋がかかったようです!

2004年7月16日
アフリカ・ボツワナ

7月16日 チョベにて伝統のダンスを披露していただきました。

2004年7月16日
アフリカ・ボツワナ

7月16日 チョベ国立公園。ゾウやサル、カバなどの動物の自然の姿を見る事ができます。

2004年7月16日
アフリカ・ボツワナ

7月16日 チョベにて外務委員長他、ボツワナの皆さんとの交流会。

2004年7月15日
アフリカ・ボツワナ

7月15日 オーディー・ウェーバーズ視察。協力隊員の活動現場としてこちらでは現地の女性たちにタペストリーを作って売るよう指導し、経営管理、マネジメントの面でサポートしています。


2004年7月15日
アフリカ・ボツワナ

7月15日 複雑な図柄も頭の中に図面が入っているのだそうです!


2004年7月15日
アフリカ・ボツワナ

7月15日 ボツワナ国旗の柄の織物を一つ購入!

2004年7月15日
アフリカ・ボツワナ

7月14日 メラフィ外務国際協力大臣表敬

2004年7月14日
アフリカ・ボツワナ

7月14日 外務委員会との懇談

2004年7月14日
アフリカ・ボツワナ

7月14日 モハエ大統領表敬

2004年7月14日
アフリカ・ボツワナ

7月14日 青年海外協力隊の皆さんと。現在31名の協力隊の皆さんとシニアボランティア5名の方々が現地でご活躍中です。

2004年5月4日
ベトナム

5月4日 元日本留学生の方々と懇談の機会を得ました。ベトナムの未来ある若者たちにより多く日本へ留学に来てもらい、日本を知って、親日家を増やしていく為にはどの様な知的支援や努力が必要か貴重なご意見を伺う事ができました。

2004年5月4日
ベトナム

5月4日 今後も両国が互いに理解を深め、更なるパートナーシップを築いていく事が両国発展への道筋となるでしょう。


2004年5月4日
ベトナム

5月4日 ズン常任副首相を表敬訪問。


2004年5月4日
ベトナム

5月4日 ズン副首相は今後更にベトナムと日本は政治、経済、文化において強固な関係を築いていくだろうと力強く語り、父小渕恵三への生前の感謝のお言葉もいただきました。父は総理時代の1998年12月に訪越し「人間の安全保障」の重要性について政策演説を致しましたが、 5年経った今、私もこの課題に取り組みながら、両国の友好発展に努めてまいります。

2004年5月3日
ベトナム

5月3日 5月2日から5月5日の日程で日越議員連盟のメンバーとしてベトナム(越南)を訪れました。昨年11月の衆議院選挙で会長以下人事が一新し、両国とも初顔合わせとなりました。武部勤日越議連会長とホアン越日議連会長、そして同行した議連メンバーらと会談。


2004年5月3日
ベトナム

5月3日 1973年9月21日、当時のベトナム民主共和国(北越)と日本の間で国交が樹立され、76年7月に南北が統一されベトナム社会主義共和国が成立されてから今日まで幅広い分野の交流が進んでいます。ホアン越日議連会長と固い握手。

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