1980年代プロフィールProfile

1989年(平成元年)
4月 成城学園高等学校入学
変化

特に中学のときと同じ学校、同じ仲間といった感じなので、変化なし。ただ、上手には言えないけれど、子供から大人への何かいろいろなものを学んだ。私はけっして善人ではない。どちらかというといやなやつであると思う。でも、私はこの「いやなやつ」が好きだ。悪いこともした。夜遊びもした。でも、けっして道ははずさない。なぜなら愛されているから。それは親だったり、友達だったり、自分自身だったり、いろいろ。

流行

「チーム」・・・若者が渋谷を中心に「チーム」というグループを作って遊んだりすること。今ではもうないのかな…。あのころチームが流行っていた。渋谷のセンター街に遅くまでみんなで座っていたり、パーティーとかに参加したり、問題もいろいろ起こしたのだろうけれど、大人たちが言うほど悪いものではなかったように思う。私はチームに入っていたわけではなかったけれど、それによって他校の友達もたくさん出来た。「紺ブレ」・・・紺色のブレザー。これも流行。その頃の私のスタイルは、紺ブレにチェックのパンツをはいて、ブーツ履いてまさに男の子のような格好をしていた。

部活動

高校に入り、演劇部をやめてゴルフ部に入った。私、自分が運動神経がなくて、運動が苦手なのすごく嫌だった。いつも運動の出来る子はスターだったから、憧れだった。
でも、どう考えても小渕家みんな運動オンチ。私だけ万能なわけがない。でも、いつまでたっても運動オンチは悔しい。何とかしたくって無謀にも運動部に入部。・・・・・いい加減な部員であったため、たいして目的達成ならず。
よかったことはゴルフを通じて父とのコミニュケーションの場を持てたという事。

小学校1年生から続けていたお琴。高校2年生のときに準師範になるための試験を受けた。
毎晩11時ごろまで練習と勉強、その甲斐あって無事合格。名取りとなり、「秀優華」の名前をいただきました。

琴
友達

大人になると、結構ずるくなって、どうやって他人と付き合うのか覚えてくる。だいたいこういう人とは話が合うだろうとか、上手に付き合える。

でも、このくらいの頃ってなかなかそうはいかない。みんなむき出し、裸でつきあう。傷つける、傷つく。ぶつかる。いいことばかりじゃないけれど、そこから生まれる友情。恥ずかしいことだっていっぱいある。自慢とかもしただろう、自分を大人に見せたくて。自分自身のこともまだよくわからないから、他人のことなんてもっとわからない。自分のことだってうまく説明できない。右往左往しながら築いた友情は今も健在。

友達

平成おじさんと呼ばれるようになり、なんだか知名度が出てきた父。父がテレビに出ているのが当たり前になるということがとても不思議だった。父は友達を連れてくるといつも一緒になって会話に参加した。そんな時は必ずステテコ姿だった。

男の子から電話があるとつながないで切ってしまう。女の子には優しい。友達はステテコ姿の父のほうをみんなよく知っていた。私がお風呂に入っていると必ずノックをする、「入るぞー」と言って逃げてしまう。冬でも「暑い」といって扇風機をまわす。

私はそんな父にもう2度と会えないのだろうか。

こうやってこれを書いていると、また涙が出てくる。(今、会館事務所なのに…。)これから何回も父の話が出てくるのに、毎回これでは先が思いやられる。


1989年(平成元年)
3月 成城学園中学校卒業
平成

この年、元号が昭和から平成に変わる。戦争を知らない世代の私たちにとっては、この、昭和という1つの時代が終わることに対して、そこまでの感慨はないものだが、それでもこの大きな節目に生きたことに、胸に重いものを感じた。

父によく、新しい元号を教えてと聞いたことがある。誰にも言わないから。といって。
もちろん父は教えてくれなかったが、私はこの「平成」の持っている意味がとても好きだ。「内平らかに外成る、地平らかに天成る」。内、というのは家庭であったり個人の中身であったり、いろいろな意味に取れるだろうけれど、ある出発点、そこを大事にしながらもそして大いなる未来へ向けられた言葉であると思う。


1986年(昭和61年)
4月 成城学園中学校入学

成城学園はお嬢様学校というけれど、どうしてどうして。1年生では2kmの遠泳、2年生では白馬登山、そして毎年の20kmマラソン大会。まったく泳げなかった私にとってはかなりつらいこと。この3年間でとてもたくましくなった。

初めての男女共学。今思えばよかったと思うけれど、この時はなかなか慣れず、毎日ショックを受けていた。教室は土足、職員室はノックなし、先生のことはあだ名で呼ぶ。厳しい小学校で育ったせいか、そんなこともショックだった。でもこの自由な校風は大きな深呼吸をしたときのように、自然に私の中に入ってきた。桜の下でお昼ご飯をたべたり、男の子女の子、みんなで遊んだり。新しい勉強、新しい友達、新しいまた違う世界が開けたような感じだった。

白馬登山
演劇部再び

小学校に引き続き、部活動は演劇部に。小学校の頃よりも数段本格的で、でもその分楽しかった。友達も先輩も後輩も、みんな本当に仲がよく、1週間の夏の合宿はとてもハードでありながら、とても楽しかった。マラソンから始まって、発声、ストレッチ、そしてダンスの練習。汗と涙と笑いありのこの合宿は、本当にいい思い出。

演劇部
好きな人

中学から高校にかけて5年間、1つ上のバスケット部の先輩が好きだった。片思い実らず。今ではいい友達。

父の仕事

父の仕事を少しずつ手伝い始めたのは中学生のとき。はじめは群馬に戻って、父が忙しくて顔を出せないときに顔を出したりしていた。みようみまねで何もわからなかった。政治家という仕事を初めてほんの少し垣間見た。周りの皆さんが優しくて、まるで自分のことのように父を応援してくれ、挨拶をしなければいけないのに涙が止まらなかった。人の情けがつらいという感じだろうか…。

私服・制服

幼稚園、小学校と制服だったのに、中学に入ったら私服に変わった。一応はプリーツスカートをはかなければいけないのだが、服装違反ばかりしていた。男の子は制服、女の子は私服。「女の子は将来だんな様の洋服も選んであげなきゃいけないから、センスがよくなったほうがいい」と聞いた覚えがあるけど、本当だろうか…。


1986年(昭和61年)
3月 星美学園小学校卒業
受験

3つの中学校を受験しようと思ったが、当日高熱を出し一校受けるのが精一杯。面接では入り口と出口を間違ったりと散々ではあったものの、その一校である成城学園中学校に無事合格。


1980年(昭和55年)
3月 星美学園幼稚園卒園、4月 星美学園小学校入学
習い事

学校の授業の後に、母の勧めでお琴を習い始めた。よく知らない楽器だったが、珍しいことには手を出してみたい。母は少しは女の子らしくと思ったのかもしれないが、「ごきげんよう」の挨拶はするものの、特に女の子らしくならず。ただ、着物もお琴も好きだったため楽しくやっていた。お家元は宮下秀冽先生といい、とてもやさしく教えてくれた。

国会見学

日曜日地元の方の国会見学に行く父について、よく父と国会に行った。父と出かけた記憶の中で、国会が一番多かったように思う。

国会見学
スタイル

小さいころはすぐ上が兄ということもあり、お下がりの関係上男の子のような格好をしていた。父は私が男だったらといい、私のことを「優太郎」と呼んでいた。出かけるときはいつもジーパンだった。

部外活動

3年生のときにブラスバンド部に所属した。ユーフォニュームという金管楽器を習っていたが、早朝練習が多く、起きれず途中で断念。

部活動

4年生のときから、部活動が始まった。何をやろうか迷った挙句、あんまりみんなが選ばないところに行こうと思い、演劇部に入る。父も母も音楽や舞台は好きだったため、その影響もあるのかもしれない。

児童会

5年生のときに児童会役員選挙があった。なんでもやりたがる私としては立候補。当選。それから卒業まで児童会役員を務める。

受験

私の行っていた学校は、一貫教育だったので付属の中学があったのだが、ほかの中学に入学しようと思い、受験することに。四谷大塚進学教室という塾に通い、小学生ながらなかなかハードな生活を送る。
小学校のときの成績が、今思えば一番よかったかもしれない。国語が一番好きで、図工、家庭科も好きだった。体育はいつも3だった。運動神経はまったくなかった。(いまだに逆上がりが出来ない)牛乳が嫌いで、給食は少し苦手だった。とはいえ、ほとんどの日はお弁当だった。姉兄3人同じ学校だったため、母は十何年も毎日3つのお弁当を作りつづけてくれた。

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