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2003年8月
苦労は、きっと実る。NEVER GIVE UP!
クロスロード 2003年8月号巻頭Interview


小渕優子 衆議院議員
自民党「青年海外協力等人的国際貢献に関する小委員会」事務局長
本誌では次の9月号より、青年海外協力隊員の多くと同世代である衆議院議員・小渕優子さんによるインタビュー連載「協力隊、歴史の検証への旅」をスタートする。小渕優子さんは、その急逝を国民が悼んだ小渕恵三元首相の次女で、自民党にあってはJICAボランティアの円滑な活動のための支援をしてくださっている小委員会の事務局長でもある。小渕元首相と協力隊の関係や、今回の連載に賭ける心境などを語っていただいた。
父の回復を家族で祈った一カ月余りの日々


- 小渕優子さん、小渕元総理が亡くなられたのが2000年の5月14日のことでしたから、もう3年になりますね。
[小渕]
そう、3年になります。父が倒れたのは4月1日の深夜でしたが、私は留学先のロンドンで試験が終わりイースターホリデーを楽しんでいたので、連絡を受けるのがちょっと遅くなり、帰国できたのは4日でした。
- お姉さんの暁子さんがまとめられた『父が読めなかった手紙』をあらためて拝見したのですが、幼い子から小・中学生、お父さまと同年の方まで、お見舞いの手紙が日々大変な数に上ったとか。
[小渕]
本に載せさせていただいたお手紙は、あれでもごく一部で、折り鶴もたくさんたくさん送っていただきました。海外からも、「東京の病院、小渕恵三様」で届いたんですよ。中には、「私は、友だちとうまくいかなくて悩んでいました。でも、小渕首相の笑顔を見ていて、学校でがんばっていこうと思いました」というようなものもあって、父が読めたらどんなにか喜んだろうと思ったものです。
- あの年の正月明け、お父さまは「沖縄サミット」の関連で、カンボジア、ラオス、タイを歴訪されましたよね。その際、懇親会などで隊員たちにお声をかけてくださったそうで、その隊員たちは本誌に、ご回復を祈る便りを寄せてきていました。
[小渕]
私と母と姉が中心になってずっと看病しておりましたが、皆さんの、そうした励ましでとても勇気づけられました。と同時に、父が私たちに最後の贈り物として残してくれたような日々でもありました。というのも、父も母もいつも忙しくしておりましたから、家族が皆で寄り添って過ごしたことは、私たちにとって初めてと言ってもよい体験でした。家族にとってみると、最初で最後の貴重な時間を父がくれたのだと思うことで、大きな慰めになったものです。
なぜ、TBSを辞め、首相秘書になったのか


- お姉さんの暁子さんがお書きになった『父のぬくもり』の中にありましたが、お父さまは優子さんが幼いころから、「サッチャー首相のようになろうね」っておっしゃって、「ユッチャー」とお呼びになっていたんですって?
[小渕]
小さいときは本当にそうだったんですよ。私はお転婆で、けれど、姉も兄もどちらかというとおとなしいタイプでした。着せられるものもジーパンとTシャツ。「ユッチャー」以前は、「優太郎、ゆうたろう」と呼ばれていました。みんな「おぼっちゃんですか?」って言う(笑)。
- きっと、早くから、後継者にと考えられていたのですね。
[小渕]
どうだったのかしら? でも幼稚園に通っているころから、ご飯を食べる前に「はい、優太郎、演説」と言われるわけです。すると私は、今でも覚えていますが、「わたくし、ご紹介に与りました小渕優子でございます」とやっていました(笑)。子どもでしたから、父を喜ばせたいという気持ちでやっていたのだと思いますけど。
- 大学をご卒業された後、TBSに入られたんですよね。そのころには、将来は政界へというお気持ちは固まっておられたのですか。
[小渕]
いえ。中学から演劇部に入っていて、テレビで制作をやりたかったのですが、マスメディアの中枢に身を置いてみたいという思いもあってTBSを選択しました。
-何年いらしたんですか?
[小渕]
3年いました。最初の1年半は営業にいて、次の1年半は、私が行きたいと思っていた制作現場。
-張り切っておられるところに、お父さまが総理になられた。
[小渕]
そう、制作に行って、1年経っていたでしょうか。
- ご心境は?
[小渕]
ご存じのように人気のない総理で、あのバッシングを、私はテレビ局で直視することになりました。毎日毎日、父の悪口が流れる全局のテレビに囲まれて仕事をしている感じでした。私がこんなに辛いのだから、本人はさぞかし辛いだろうと思って、なんとか時間を作って公邸を訪ねていましたが、「大丈夫、大丈夫。そっちこそ大丈夫か」って、私の仕事のほうを心配してくれていました。でも、ある晩10時くらいかな。私が訪ねていったら、一人がけのソファーに、父がくしゃくしゃに潰れたようになって寝ていたんです。まるですり切れた雑巾みたいになって…。「一国の総理ともあろう人が…」と、なんともかわいそうでした。その寝頗を見ながら、もう外の世界で仕事をしていて「がんばってね」と言っているだけではいけない。そばについていてあげなければ、という気持ちが湧き上がってきていました。
- で、秘書になられた? お喜びになったのでは。
[小渕]
ところが、「会社を辞めて、手伝いたい」と父に言いに行ったら、そのときは、「お前には大変な世界だ」って言われて、断られてしまいました。でも結局、「いつから、来られる?」と例の "ブッチホン" が私にも入って、それから3ヵ月後、TBSを円満退社して、1年間秘書の勉強をさせてもらいました。その後、ロンドン留学ということになります。
「謙虚であれ、誠実であれ、勇敢であれ」を受け継ぐ


- 総理がご病床にある間も、政局は否応なしに動いていて、ご家族のお気持ちなどは報道では知るよしもありませんでした。政治家の仕事がいかに過酷かを優子さんまは目の当たりにされたわけですね。それでも後を継がれた。お父さまから最も受け継ぎたいことは。
[小渕]
父が初当選したとき(昭和38年)に、尊敬する先輩から、「謙虚であれ、誠実であれ、勇敢であれ」をモットーにせよと激励さ れたとよく話しておりましたが、家族から見ていても、まさにその言葉のとおりに生き抜いた人でした。私も、そうありたいと思っています。
- 勇敢という表現は当たらないかもしれませんが、1997年でしたか当時外務大臣だったお父さまが、「対人地雷全面禁止条約」にいち早く調印されたときは、感激したものです。
[小渕]
覚えていてくださいましたか。そんなこともあって、『父が読めなかった手紙』は売れた分だけ、カンボジアの地雷撤去に尽力されている「難民を助ける会」のカンパになりますので、よろしくお願いします。
- ところでお父さまは、議員になられる前の26歳ころ、38カ国の国々を旅行されたそうですね。
[小渕]
そう聞いています。日本と他の国の若い人たちとの交流とか、若い人たちの教育はどうあるべきかなど、昔から関心が強かったそうですから、若いうちにいろいろ見聞を広げたかったのだと思います。その経験が協力隊の創設にかかわる要因にもなったのではないでしょうか。協力隊の皆さんが大好きでしたので、外務大臣になっても総理になっても海外に出るときは、必ず隊員の皆さんと会う機会を作るようにしていました。
現地で、同世代の隊員たちと出会って


- 優子さんも、すでにいろいろな隊員たちを現地にお訪ねいただいているとうかがってますが、もう何力国になりますか?
[小渕]
数力国でしょうかね。今後はもっと訪問する機会を増やしたいと思っています。
- 隊員が活動する現場にも行っていただいていますか?
[小渕]
ええ、できるだけ現場に足を運ぶようにしています。でも、鮮烈な印象というか、感慨深かったのは、父に縁が深かったカンボジア、ラオス、ベトナムでのことかしら。ここで、私自身協力隊事業をしっかり学び直し、サポートし続ける意味を把握できたと思ってもいます。
- 協力隊はなんと言っても、現場の隊員たちが主人公ですからね。
[小渕]
やはりふだんは、なかなか交通の便が悪いところには行けないのですが、この3カ国の場合、かなり奥の方まで現地視察というか、現地で活動している方々のところまで行かせていただきました。皆さんの活動をこの目で見て、その後でお昼食べたり夕食をご一緒したりしながら、いろいろな問題点について話し合ったりすることができました。とにかく皆さん、生き生きとやっていて元気はつらつ、うらやましくなるくらいでした。父を失った私を気づかってか、優しくもしてくださいました。その時、「お互い、苦労は買ってでもしようよ。辛くても、NEVER GIVE UP! でいこう」とひそかにエールを送ったものです。 私はいつも、「なんで協力隊受けたの?」って聞くようにしているのですが、「担任の先生が協力隊にいたので」とか「親が隊員だったので」っていう人が結構おられます。私も協力隊サポーターとしては2代目ですし、確かな歴史を感じます。なにしろ、協力隊が誕生したとき、父も一年生議員だったのですから。
- 協力隊は創設から38年になりますからね。現在は、当時とは国内的にも国際的にも大きく環境が変わっています。協力隊事務局は一昨年から昨年にかけて、識者にお集まりいただき「21世紀のボランティア事業のあり方」調査検討委員会を開催しました。優子さんにはオブザーバーとして参加していただきましたが、特に印象に残った点をお聞かせいただけますか。
[小渕]
協力隊が変革の時期を迎えているのではないかを検討する委員会でしたが、変えてはいけない部分に言及される方も多く、私自身とても勉強になりました。
変えるべきものと、変えてはいけないもの


- まさにその「明日の協力隊のあり方を求めて」というか、「協力隊、歴史の検証への旅」といったタイトルで6回の連載を始めていただきますが、この連載を通じて何を伝えていきたいとお考えでしょうか。
[小渕]
最初のインタビューは、海部俊樹元総理にお願いしております。海部先生が末次一郎先生ほか、皆さま方と協力隊を立ち上げた当時のことについてじっくりうかがうつもりです。
全体的には、歴代隊員の皆さんたちの努力によって、途上国に貢献する協力隊の評価は現在、確かに国内外で定着してきています。でも、このままでいいのかという点もあるのではないかということ。といっても、変えてはいけない、守っていかなければいけない点もある。そんなことを考えながら、先輩方が立ち上げたときの原点というものを、多くの方々に改めてお伝えする仲立ちになれたらと思っています。
- ちょっと大仕事になると思いますが、意気込みといったようなものを最後にうかがえますか。
[小渕]
父は、21世紀という時代に、大きな希望を持っていました。司馬遼太郎先生を好きだった父は、『21世紀を生きる君たちに』という本を、何度も読み返していました。司馬先生はご自分が、「21世紀というものを見ることができないにちがいない」とお書きになりながら、21世紀を生きる子どもたちに、「君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた」と素敵な言葉を贈っておられます。この童話というか絵本のような一冊、私も大切に傍らに置いています。 残念ながら実際の21世紀の滑り出しは、不幸な事件が重なっていますが、私は、次の世代のために何ができるかをテーマにしながら、協力隊のことも考えていきたいと思っています。
- よろしくお願いいたします。読者の皆さんも、次号からの連載にどうぞご期待ください。


2003年7月29日


7月29日 第20回産経国際書展贈賞式、祝賀会が高円宮妃久子さまご臨席のもと行なわれました。小渕は昨年に引き続いての出席です。日本の様々な伝統的文化は書をなくしては語れませんがパソコン、ワープロ主流の中、この伝統文化を次の世代へ伝え、広めるお手伝いをしていきたいと思っております。

2003年2月24日 対論 座標軸 Kyodo Weekly 2003.2.24 共同通信社


(共同通信社発行の週刊誌「Kyodo Weekly」に小渕へのインタビュー記事が掲載されました。ご紹介いたします。)
伝統の尊重や公共心、愛国心などを盛り込むよう求めた中央教育審議会の中間報告を受けた教育基本法の改正案が今国会に提出されようとしている。
イラク、北朝鮮問題の一方で、国会では早くもその賛否を巡り前哨戦が始まっている。前回に続き、この問題について今回は自民、民主両党の若手議員に見解を聞いた。(民主党は水島広子氏)
(聞き手: ジャーナリスト 伊藤達美)
最後に残るのは『日本人』、『日本国」ということ


- 教育基本法の改正に言及した中教審の中間報告をどう評価しますか。
[小渕]
教育基本法のできた当時の時代背景や考え方と今の時代状況が大きく変化してきている事実をみると、改正に言及することが遅かったくらいだと思っています。二十一世紀の日本に徳を備えた立派な逞しい子供たちを育てていくには日本の教育がどういう方向にいかなければいけないか、を考え直すいい機会だと思います。 一方で、教育基本法が変わったからといって日本が抱えている教育の様々な問題点が急に片付くということではありません。教育基本法を改正した後、教育を深い内容にまで追究して行かなければならないと考えています。
- 中間報告では公共心や道徳心、郷土や国を愛する心を盛り込むように求めています。どう受けとめていますか。
[小渕]
公共心、愛国心というのは人間として当たり前のことです。その当たり前のことが残念ながら、現在は希薄になっているのではないか。いまの教育基本法にもすばらしいところがありますが、「個人」に偏っている部分が多分にあります。人間は一人で生きているわけではないので公共のことを考えていくというのは当たり前のことだと思います。 教育基本法は「国」ということをもう少しきっちりと打ち出していいと思います。どういう日本人を作り育て、どんな日本を建設するのか、それを考える時に自分の国に愛情を感じる、というのは書き込むまでもない当たり前のことであっても、それをきちんとすることは良いことだと思います。 ですから私は改正には基本的に賛成です。教育基本法は日本の教育の一つの目標、目的であると考えます。時代の変化に応じて改正していくのは当然のことであると思います。
- 国会議員として小渕さんは愛国心について、どう考えておられますか。
[小渕]
私の場合、自分が育った環境の中である程度自然に備わったと思います。また、衆議院議員として国政の仕事をやらせていただくということで改めて日本という国を意識するようになりました。日本人である以上、実に基本的なことですが、私は日本に対する愛国心を持っていますし、そのことを誇りに思っています。 私は自分が生まれた日本という国がすごく好きですし、「日本に対して誇りを持っています」と大きな声で言いたい。「愛国心」というと何か偏狭な国粋主義者であるかのような目で見られる風潮があるのは残念です。日本人、特に将来を担う子供たちに同じように胸を張って「この国を誇りに思っている」と言っていただきたいのです。
- 国会議員である小渕さんにとって、国家とはどういう存在ですか。
[小渕]
私は日本人とは何か、日本国とは何かということをもの凄く考えます。私事ですが、この仕事(衆院議員)を選んだ時、二十六年生きて来た自分の内にも真義や真実を挙げて一つ一つを切除する作業をしてみました。そして最後に残ったものを自分の内に見つけた時、結局「やるべきだ」と決断しました。 日本という国家は、いろいろ言うけれども、最後に残るもの、みんなの根底に最終的に残るものは「日本人」ということであり「日本国」だと思います。親を思う気持ちであるとか、地域を思う気持ちというのは、そのまま国を思う気持ちに繋がっていきます。 古く遡って先祖代々すべての先人が頑張って、築いてきた礎の恩恵に預かって私達のいまの生活が成り立っているのです。過去から現在、そして未来へと人は縦横に支え合って生きています。結局、それらが繋がって国家を形成しているのだと考えています。

2003年1月
新春対談 月刊 自由民主 2003.1


(自由民主党の機関誌、月間「自由民主」平成15年1月号に麻生太郎氏と小渕優子との新春対談が掲載されました。ここに再掲載いたします。)
本誌の新春一月号を飾る対談は、麻生太郎・党政務調査会長と小渕優子衆院議員が登場。「大切にしたい『日本固有』の文化」をテーマに、情報化やグローバル化が急速に進む日本の社会が抱える教育、少子高齢化など、幅広い問題について語ってもらった。
混迷を超えて新たな挑戦


躍動の年二〇〇三年。本誌特集は新春対談、歴史的講演、日本国憲法像を掲載し、新たな誓いと希望の下に、夢の持てる未来、あるべき国家像を模索しながら、わが国の将来に「明るい明日」をひらく。

新春対談 大切にしたい「日本固有」の文化と伝統


[出席者]
党政務調査会長 衆議院議員 麻生太郎
衆議院議員 小渕優子
吉田茂元総理を祖父に持つ麻生太郎政調会長と小渕恵三元総理の次女・小渕優子衆議院議員に「新春対談」をお願いした。お二人の年齢は親子ほどの開きがあるが、お互いの祖父、父親、そしてイギリス留学時代の思い出にはじまり、子どもの躾、日本固有の文化の大切さ、教育、外交、少子高齢化、農業問題へと話は弾む。「政治家は国民に夢を持って貰えるようにしないと、経済も活力が生まれない」と二人の意見は一致、さらにお酒や「元気なお年寄り」の話など“麻生節” が冴えれば、小渕議員の軽妙な応対と明るい笑い声が、ますます話を盛り上げる...。

ナショナル・ドレスが自分で着られない


[麻生太郎]
おう、まぶしい。小渕さんの着物姿は初めて拝見しますね。初め、対談相手は女優さんだと聞いていたんだけど、いつの間にかに…。
[小渕優子]
申し訳ありませんね、美しい女優さんじゃなくて(笑い)。
[麻生]
いや、いや、とても綺麗ですよ。『月刊自由民主』で新年特集を組みますからとか、うまいこと編集部にのせられてその気になっていたら、すごい美しい人に決まったって。誰かって聞いたら、「小渕優子先生です」って言うんだ。一瞬、絶句したね(笑い)。
[小渕]
新年なのでせっかく着馴れない着物を着てきたのに。あまり、いじめないでください(笑い)。
[麻生]
ぼくだって、小渕先生に合わせて、ちょっとと装ってきたんだ。それにしても、日本の女性は着物がよく似合う。あなたのゴルフ姿も素敵だけど、やはり着物はいいねえ。
[小渕]
背が高すぎるっていわれます。私みたいに大きい女性は和服は似合わないんじゃないですか。
[麻生]
そんなことない、ない。よく似合う。小柄な日本サイズの青い目の女性が和服を着ても、多少着たことがあるといったって、何となく違和感を覚えるんです。よっぽど着なれていないかぎり。だけど、口本の女性は、初めて着る若い人でも何となくさまになる。不思議なもんだね。
[小渕]
恥ずかしいんですが、きょうは和装してきましたが、私、自分で着物を着られないんです。普段、なかなか着る機会がないもので…。
[麻生]
イギリスに留学していたんでしょう。パーティーなどで着る機会はあったんじゃない?


[小渕]
父があんなことになってしまったので、途中で帰国してしまいましたが、外国にいて自分でナショナル・ドレスを着られないというのは、結構こたえますね。韓国のチマチョゴリ、「あのほうが着やすいだろうな」と思ったりしますが、みんながナショナル・ドレス姿で誇らしげに自分の国の自慢をしているのに、私だけが着物で参加できないということに、ちょっとはずかしさを覚えることもありました。外国人の多くは日本人なら自分で着物が着られ、お茶や生け花ができるのは当たり前だと思っているところがありますから。

日本固有の文化・伝統を大切にしたい


[麻生]
確かにそう。でも、そのくらいは出来たほうがいいと思うよ。日本人が長い歴史の中で見いだした「わび」「さび」「もののあわれ」といったような独自の感性が、茶の湯や生け花、能、歌舞伎などの芸術を生む下地になっている。やはり日本固有の伝統文化は大切にせにゃいかんと思うねえ。
[小渕]
先生は学生時代にアメリカ、イギリスに留学していたそうですが、外国の人は、日本人なら誰でも能や歌舞伎のことなど話せると思っているようなところがありますね。私なんて、まともに答えられなくて恥ずかしくなってしまう。
[麻生]
今の日本人、とくに若い人は伝統文化と言ったって興味を示す人は少ないんじゃない?小渕さんも若いけど。
[小渕]
この前、塩川正十郎先生(財務大臣)に、「君、東京オリンピックの時には何していたんだね」と聞かれたので、「まだ生まれていませんでした」と答えたら、「そうか、そうか」で終わってしまいました(笑い)。
[麻生]
塩川大臣はいろいろ書物なども出している相当な文化人ですよ。日本人なら、日本固有の文化や伝統を大事にし、それを子孫に伝えたいと思うのが当然のような気がするんだけど..。 自国の文化をないがしろにして国際人だなどとは言えません。どこの国の人も、それぞれ自分の国の伝統文化を大事にしている。日本人はどうも、その辺りがおかしくなってしまってますねえ。
[小渕]
よく、日本人は経済的に豊かになったけど、心が貧しいと言われますね。
[麻生]
まあ、人間、物質的な豊かさを享受すると、どういうわけか「思いやりの精神」とか、「奉仕の精神」とか「伝統の尊重」などといった、従来の価値観を失ってしまう。とくに、今日の日本人にその傾向があるように思うねえ。
[小渕]
麻生先生は、朝日新聞の『私の視点』(平成14年11月17日朝刊)の教育基本法に関する記事の中で、「日本入は戦後、家族や躾など守るべき大事なものを捨て去ってきたのではないか」と書かれていましたね。吉田茂元総理を祖父に持ち、また麻生セメントのご長男ですから、小さいころから家庭の躾はとても厳しかったのでしょう。先生の妹の信子さまは、三笠宮寛仁親王殿下のもとに妃殿下として上がられていますし、本当にやんごとなきお家柄ですから..。
祖母に育てられた幼年時代


[麻生]
そんなことはないよ。目の前の僕を見りゃよく分かるでしょう(笑い)。ただ、両親は吉田茂のそばにぴったりくっついていたから、二人はほとんど東京暮らし。親父も、そのころ国会議員で吉田茂の側近だったし、おふくろもファースト・レディーのような立場だったから、しょっちゅう一緒に外国へ出かけて行っていた。だから、僕は小学校の三年まで福岡にいて、麻生の婆さんに育てられたんだ、当時、東京−九州間は、汽車で三十六時間くらいかかった。それも満員列車ですよ。だから二人ともめったに帰ってこない。忘れたころ、親父が帰ってくる日になると、「きょうは、お父さまとのご面会日ですよ」とか言われて、まるで、他人様の連れ子みたいな生活を長いことさせられてましたねえ(笑い)。
[小渕]
その間、ずーっとお婆さまに…。
[麻生]
そう。育ててくれたのは親父のおふくろ。やかましい婆さんだったから、箸の上げ下ろしに始まって、行儀や目上の人に対する言葉遣いなど、かなり厳しく言われたな。そのおかげで、何とか人様の前で見苦しくない程度に食事かできるようになった。和服も婆さんがたたんでるのを見ていて、遊び半分真似しているうちにパタパタとたためるようになりました。だけど、爺さんの吉田茂は全くうるさくなかったな。教訓らしきものを聞いたのは、小学校の終わりか中学生になったばかりのころ、たった一度だけだった。 「男は決して人の前で泣くものではない。泣くのは感激したときだけにしろ」と。まあ、今もその教えだけは守っているけど、婆さんの話のほうは、ほとんど忘れてしまった(笑い)。
[小渕]
小学校の途中から東京のご両親のところへ行ったのですか?
[麻生]
小学校三年のときに上京し、親元から学習院の初等科に通うことになった。
[小渕]
お婆さまは厳しい方のようですが、ご両親も躾は厳しかったのでしょうか。
[麻生]
おふくろは子どもにモノを買い与えることに厳しかった。当時は皮のランドセルが珍しいころで、編入したときは、クラスで一人か二人しか持っていなかった。だけど、初等科を卒業するころには全員が皮のランドセルをしょっていたのに、僕だけが卒業するまで布製のものを持たされた。まだ使えるのに、新しい皮のランドセルを買うのは贅沢というんだ。靴も、少し穴があいたくらいでは、新しいものは買ってもらえなかったな。 その上、わが家の食事は麦飯だった。あのころは世間もそうだったが、「人様の家に呼ばれたときにどんなものを出されても、おいしいと感謝する気持ちを持たせるには普段贅沢させることはよくない」というのが、おふくろの方針だったね。迷惑な話なんだが、確かによその家に行って白い飯をだされたときは実に旨かったねえ(笑い)。
[小渕]
私、国会議員になってすぐに党の「文部科学部会」に所属したんですが、この間、教育基本法改正を考える委員会に出席した時、麻生先生が何も見ないで教育勅語を一気にダーッとおっしゃった。あの時、私もそうですが、皆びっくりしていました。
[麻生]
僕くらいの年代から上の人なら、だいたい覚えていると思うよ。明治時代に、日本でも成文憲法をつくらねばいかんというので、国憲起草の勅令というのが明治天皇から出て、それを受けて伊藤博文公たちがヨーロッパに行って、いろいろ勉強して帰ってきて上申したんです。「日本では成文憲法はできない。なぜなら、日本にはヨーロッパのようにキリスト教の道徳的支えがないから」と。それを聞いて、五ヵ条の御誓文を書いた由利公正という人が、「そんなことはない、日本にはキリスト教に代わる皇室があるではないか」と言って、明治天皇の名で国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した教育勅語ができるわけ。これが明治憲法を支える道徳律となってずっと続いてきたんだが、大東亜戦争に負けると「教育の淵源を皇祖皇宗の遺訓に求める教育勅語はよろしくない」ということになった。それに代わるものとして教育基本法ができた。昭和二十二年に占領軍総司令部のもとでつくられたんです。

教育基本法の改正が必要


[小渕]
先頃、中教審(中央教育審議会)が、教育基本法の見直しの方向をまとめた中間報告を発表しています。そこでは「郷土や国を愛する心」や「公共の精神」といった基本理念が盛り込まれていますが、日本人の気質なのでしょうか。すごく変化を恐がるというのか、まだまだ反発する人が多いですね。
[麻生]
憲法もそうだけど、一度できると絶対変えちゃいかん不磨の大典のごとく言うけど、憲法だって戦後、一回も変えていないのはヴァチカン市国と日本ぐらいのもので、それ以外の国はほとんどみんな変えている。何回も何十回も変えている国もある。 もちろん、いまの教育基本法に書いてあることは間違いではない。「人格の形成」「個人の尊厳」など、どれも大事なことだが、日本人の教育は何を目指すのか、どういう日本人をつくろうとしているのか、そういった目的が全く感じられませんねえ。
[小渕]
最近は何かとグローバル化、グローバル化と言って、日本人なのに自分の国や日本人であることを誇りに思う人が少なくなっているような気がします。外国の留学生は、自分の国のことになると嬉々として自慢しますね。今度の中間報告は「愛国心」を「国を愛する心」と言っていますが、ある程度は進歩したように思いますが…。
[麻生]
いや、まだまだ。冷戦構造が終わった1990年頃からグローバリズムが流行しだしたが、それに対してリージョナリズム(地域主義)も出てきた。その背景には民族、宗教、伝統があり、その単位は国家なんです。地球規模の温暖化の問題にしたって、CO2(二酸化炭素)削減の割り当ては国単位になっているでしょう。それなのに、いつの間にか「世界は一つ、何とかはみな兄弟」なんて、どこかで聞いたようなことを、言っているけど、なかなかそういうわけにはいきません。 僕は教育基本法には「国」という概念をもっと明確に打ち出す必要があると確信しています。朝日新聞にも、はっきり書いたが、「国を愛する心」なんていう言葉遊びをせずに、「愛国心」を持つということの大切さをはっきり示すべきだと、折りあるごとに言っているんです。
[小渕]
教育基本法の中身を見ると、世界、人類、平和、民主主義とか、人格、個人というような価値はとても強調されています。でも、国家、家庭とか歴史、伝統、文化とかいうものがどこにも書かれていませんね。「伝統文化の尊重」という文言を入れるのは、とてもいいことだと思います。
[麻生]
いいこと言うじゃない。いまの教育基本法には「公」と「私」との境をどうするかといったこともはっきり出ていない。「民主的文化国家」とか「世界と人類の福祉」などというものは掲げられている。これ自体は決して悪いものではないが、どこの国にも当てはまるような基本法で、「日本」というものが完全に欠落している。まあ、言ってみれば蒸留水のようなもんだから、もっと日本の水の味がするものに変えなけりゃねえ。
[小渕]
教育基本法というと、子どもたちのためのものと思われているようですが、国民全体がしっかり考えなくてはならない大事な問題だと思うんです。
[麻生]
教育基本法を見ていると、どう考えても小中学生を対象にしていますよ。教育基本法を子どもの話としてではなく、社会全体の話としてとらえないといけません。教育の荒廃が叫ばれて久しいけど、もとを正せば教育基本法に問題があるような気がしますねえ。教育問題は基本法改正だけで解決する問題ではないけど、教育は五十年かかって悪くなってしまった。 それなら、五十年かけて直すくらいの心構えで取り組まなければいけないし、いま、その作業の出発点である教育基本法の改正がどうしても必要になります。大東亜戦争といっても、もう分からない若い人たちが増えているようだけど、戦後五十年以上たって世紀も変わったのだから、いま落ちついて基本法をきちんとまとめ上げなけりゃねえ。憲法問題は、ようやく国会に調査会ができて動きだしていますが、これまでのように不磨の大典のごとく触らないでいては前進はしません。われわれが直面しているのは、半世紀単位の大事業なんですよ。

お嫁さんにするなら酒の飲める人


[小渕]
もっと、いろいろ教育問題についてお聞きしたいんですが、いま問題となっている核家族、高齢化社会について、麻生先生の見解をお伺したいんですが..。
[麻生]
これ対談でしょう。何だか、インタビューされているみたいだな。そういえば、小渕さんはテレビ局に勤めていたんじゃないの?
[小渕]
はい。TBSに。私、本当は制作のほうに入りたかったんですが、営業に行かされてしまったんです。お酒が飲めて、ちょっとゴルフができるというので営業に回されたみたいです。
[麻生]
分かる、わかる。僕も昔、会社の経営者をやっていたから。
[小渕]
営業部には80人くらいいたんですが、女性がたった3人。私は8年ぶりの女性新入社員だと言うんです。で、私、片っ端から男性社員をつぶしていったんです。
[麻生]
仕事で?
[小渕]
違うんです(笑い)。お酒で。だいぶ前の話ですけど、男性とお酒を飲んでいて、いつも最後に送っていくのは私のほうなんですよ。あら、何でこんな話になっちゃったのかしら(笑い)。)
[麻生]
まあ、まあ、新年号の対談なんだから、酒の話くらいしたっていいでしょうが。僕は遅くまで結婚しなかったけど、正確にはできなかったんだけど、「嫁をもらうなら酒の飲める人をもらいなさい」というのが、おふくろの絶対条件だった。こっちも、できれば酒屋の娘がいい。きっと旨い酒飲んでいるだろうからと、酒屋の娘二人と見合いしたこともあるんですが、結局酒屋じゃなくて魚屋の娘(鈴木善幸元総理・元農林水産大臣の三女、全漁連会長)と結婚することになってしまった(笑い)。
[小渕]
奥様、お強いのでしょう。お魚の好きな方は、お酒もお好きですものね。
[麻生]
間違いなく妻のほうが僕より強いよ(笑い)。

三世代同居で暮らす子供はしっかりと育つ


[小渕]
お正月は、お酒を飲みながら一家だんらんという家庭が多いと思いますが、昔のように二世帯住宅、三世帯住宅というのは少なくなりましたね。群馬のほうにはまだありますが、両親だけでなく、お爺さんやお婆さんたちと一緒に住んでいる子どもは、ずいぶんと柔軟に育つというか、そういうところがあるような気がしますが..。
[麻生]
それは間違いない。幼稚園で「はい、みんなで歩きましょう」と言って歩かせてみると、よく分かる。前の子にぶつかって歩く子や、ずーと間隔を開けて平気で歩いている子は、みんな核家族育ち。いつも自分の母親のスピードでしか歩いたことがないから、間が開いちゃったり、ぶつかったりするわけ。ところが、二世帯、三世帯で一緒に暮らしているところの子どもは、お爺ちゃん、お婆ちゃん、大お爺ちゃん、大お婆ちゃんのスピードにも合わせられる。だから、他人のスピードに合わせて歩けるわけよ。とにかく、お年寄りと一緒に暮らすというのは、とってもいいことですよ。 食事のとき、勝手に座ったりしたら、「そこは、お婆ちゃんの席でしょう」とか叱ることができる。それが、躾につながる。
[小渕]
私も小さいころよく言われた経験があります。
[麻生]
食事中に、ぺちゃぺちゃうるさいときには、「そんなにしゃべっていると、お母さんの声がお婆ちゃんに聞こえないでしょう」とか言って、婆さん、爺さんのせいにして子どもを躾けることができる。それから、母親は、たいがい姑などには敬語を使う。だから、言葉は最低二つ覚えますよ。普通の言葉と敬語。それだけでもたいしたもんだ。
[小渕]
いまの女子中学生や女子高校生は、「おい、お前よう」などと、男の言葉を使っている(笑い)。
[麻生]
最近は、男が女を連れて歩いているのだか、女が男を連れて歩いているのか、さっぱり分からないようなのが増えてきた。たとえば、僕が小渕優子という美人を連れて歩いていたとする。そんなとき、何となく危なっかしいのに絡まれたら、一応、あなたを背中にしてかばう格好くらいはしないと具合が悪いよ。いまは、大きなSPさんがついていてくれるから、絡まれる心配はないけど(笑い)。
[小渕]
そうですよね。私もかばっていただきたい。だけど、絡まれて格好よく助けてくれるような男性はいるのかしら。そんなとき、私のほうがほとんど男性をかばう格好になってしまう(笑い)。
[麻生]
そのようにして着物を着ていると、一応しとやかに見えるけどね。僕ら古い人間は、いつでも男が女をかばうものだと思っている。うちには息子がいるが、高校生になった時、「お前、女の子を連れて歩いていたとき、変なのに絡まれたら身体を張って守れよ」と厳命しました。「お金もあげます。彼女もあげます」と平謝りしたあげく、彼女を放り出して逃げてくるようでは具合が悪い。 イギリスの貴族の息子は、皆、それなりの武道を身につけている。うちの息子は腕っぷしは強くはなさそうだが、一応、女性をかばうふりくらいはするとは思っているんだけど、親の見てないところでは、どうしているやら(笑い)。 いまの日本の教育は、「平和の反対は戦争、戦争の反対は平和」と教えているが、そんな教え方をしている国は他にはありません。少なくとも「平和の反対は無秩序」と教えていると思ってますねえ。外交の延長線上としての戦争はありえると、ヨーロッパの人は誰でもが思っています。それが国際的には常識なんです。早い話が、話し合いがつかなかったら、殴り合いもあり得るということを認めている部分は、外国には皆あるということですよ。 [小渕]
国際情勢は、日本が考えているほど甘くないということですね。

大国に依存しても自主性は保てる


[麻生]
そう、日本の政治家も国民も甘すぎる。1919年(大正8年)6月のヴェルサイユ条約。第一次世界大戦の戦後処理のため連合軍側とドイツとの間に調印された講和条約なんだが、そのときタレーラというフランスの外務大臣がいろいろやる。「会議は踊る」という例の話だけど、条約に「国際紛糾解決の手段としての戦争は、これを永久に放棄し」という文言が出てくる。どこかで見た文章だと思うでしょう。それを丸写ししたのが日本国憲法の前文なんですよ。まあ、条約にわざわざ書くということは、皆が守らないから書く(笑い)。
[小渕]
国際紛争解決を解決するためには、戦争は常にありえるということですか。
[麻生]
僕はそう思う。実際にそうなっている。もちろん、できる限り戦争は避けるべきだが、平和のために戦う、平和を守るために戦うことを一切認めないのは間違っています。僕は、基本的にはそう思ってます。外交だって、もっと国益を考えた戦略的な外交をやって行く必要があるんです。これまで日本には、国益のためというピシッとした座標軸がなかったと思います。 さっき、グローバル化の話が出たが、でかい国が自分の都合のいいようにするのがグローバリズムだと言っても良いのじゃないんですか。大国というのは、自分に都合の良い世界の枠組みをつくれる力がある国。小国は、その大国が決めたルールの中を、どうやって縫ってうまいことやるか、大国と小国の違いはそこだと思いますよ。
[小渕]
日米安全保障の枠組みはしっかり守っていかなきゃならないのでしょう。
[麻生]
日米安保は大切だけど、いくら大国に依存していたって、やることをやっておけば「これはこれ」とスパッと言えるようになる。湾岸戦争の時、日本は1兆5千億円も払わせられたあげく感謝もされなかった。だが、今度のアフガニスタンの件、アメリカとアルカイダとの対決の時の日本の対応は、国際社会から評価されています。
[小渕]
テロ対策特別措置法ができたので、自衛隊が動けて国際貢献ができたからですね。
[麻生]
そう、一緒に危険を負担してくれるかどうかが、国際社会の判断基準になります。そこをジーッと見ているわけです。 カナダは日本以上にアメリカに頼っているけど、だからといって相手の言うことを「ごもっともです」とすべて聞いているだけじゃない。だめなものはだめだと、はっきりしている。アメリカの言うことをきかないことも多い。それはカナダが世界最大のPKO(国連平和維持活動)の貢献国で、多くの犠牲者も出しているからで、国際社会も感謝しているし一目置く。だから、アメリカもカナダを尊重することになる。外交戦略上では、大国に依存していたって自主性は保てる。テロ特措法を早々と通し、インド洋に自衛艦を出したのは小泉政権の大きな成果ですよ。

国民に夢をもってもらえるように


[小渕]
麻生先生は政調会長という立場から、デフレ対策に力を入れていらっしゃる。そのあたりのお話を..。
[麻生]
デフレも高齢化も日本は最先端をいってます。戦後はじめてのデフレ下の不況なんだから大変なんです。構造改革で無駄を省くことは大切ですが、とりあえず日本の経済に活力をもたらすために、税制も含めて総合的に景気刺激策をやる必要があります。政治家は、暗いことばかりを言っていてはだめ。国民に夢を持って貰えるようにしないと、経済にも活力が生まれない。 小渕元総理が決断した、あの評判が悪かった公共投資という名の財政出動を覚えているでしょう。140兆円くらい注ぎ込んだが、もし、あれをやっていなかったら日本は大恐慌になっていたかもしれない。あと十年くらいしたら、「あの政策はただしかった」評価されると思うな。
[小渕]
本当ですか。そう言っていただければ、大変嬉しく思います。私も一生懸命政策の勉強をしているつもりですが、よろしくご指導下さい(笑い)。
[麻生]
ついこの間まで、「日本よデフレを何とかしろ」と、さんざん文句を言っていたアメリカやドイツも、近頃は言わなくなっている。向こうもデフレに突っ込んでいるからなんです。アメリカはバンバン金利を下げています。2001年だけで11回。効果は上がらず、去年11月にもう一回金利を下げてますね。

国民と一緒に政治を進めて行く


[小渕]
新年号の企画なんですから、何かパーッと明るい話をお願いします。
[麻生]
小渕さんは明るいよ。性格なのかな。一緒にこうして話しているだけで、こっちも気持ちが明るくなる(笑い)。早稲田大学の雄弁会(弁論部)の出身議員ですが、ああ、小渕元総理もそうでしたね。その先生は「ワタスは、東北のケネデイだす」とかいって、県会から国政の場に出て来られたんですが、昔、こんな話をしてくれた。「票になる演説というのはな、笑いとペイソスが要るんだ」。確かに僕の演説聞いたって哀愁なんて感じてくれる人なんて一人もいない。小渕優子も僕もぺーソスがないな。
[小渕]
ちょっと待ってください。かってに先生と一緒にしないでください(笑い)。
[麻生]
僕は結婚して、ひと月半たったら落選。11月2日に結婚して、12月の18日には無職になってしまった。なのに、身内以外は皆ゲラゲラ笑っている。「お前が来ると葬式も結婚式になっちゃう」と言うんだ。まあ、次の選挙も、「ペイソス」のある演説はできなかったけど、どうにか当選はさせていただきましたが…。
[小渕]
約束の時間も迫ってきましたので、最後にもう一つ明るいお話をぜひ..。
[麻生]
そうだな。いま、無職の話をしたけど、日本人は定年退職になると暗い顔になり、仕事探しに一生懸命になる。ところが、ヨーロッパやアメリカの人は定年退職というと「出所祝い」のように大喜びする。シャンパンをバンバン抜いたり、大きな宴をはってドンチャン騒ぎで祝福する連中が多いんだ。
[小渕]
日本では花束をいただいて、一人さびしく去っていく。人きな違いですね。
[麻生]
たぶん、宗教のせいだと思う。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の教典は『旧約聖書』でしょう。その中に、例のアダムとイブが出てくるんですが、旧約聖書によると、神との契約を破ったアダムに対し、「神が与えたもうた罰」が労働なんです。だから、ワーク・イズ・ザ・パニッシュメント。 ところが、わがほうは天照大神が登場してきて、「神はいかにしておわすぞと天の岩戸を開けたまひ、高天原を眺むれば、神々は野に出て働いていた」と、日本では神々も働くわけ。神々が行っているのだから、労働は善行。神々ですら働く国だから、年をとっても一生懸命働こうということになる。アメリカやヨーロッパは正反対だけど、これは宗教感の違いかもしれない。
[小渕]
アフリカのある国では平均年齢が三十何歳というところがあるそうですが、日本人には、六十五歳を過ぎても元気で働きがたっている人が大勢います。でも、働く場所がない…。
[麻生]
まずは、このデフレ不況を克服して景気を回復しないといけないが、高齢者には8時間びっしり働いてもらわなくてもいい。ワークシェアリングで4時間働いてもらうが、その代わり給料は三分の一ですよと。それでも働きたいという人はたくさんいる。 実はいま、65歳以上の人は約2370万人いるが、そのうち要介護老人はたったの13%しかいない。あとの87%は、周りが迷惑するくらい元気なお年寄りが多い。永田町だけに限らないんです(笑い)。 彼らの働く場所をつくることは大事だが、日本人の多くのお年寄りは我々が考えているよりお金持ちなんです。個人金融資産1400兆円のうちの半分、正確には 53%と言われてますが、それは高齢者が持っている。個人が株を買いやすくなるように証券税制の改正もやってますので、預金の一部で株式やモノ、サービスを買っていただくように企業も、もっと努力しなければいけない。とにかく、この巨大な預金が動かないとデフレ・スパイラルは止まらないですねえ。
[小渕]
高齢者がお元気なことはいいことだと思います。景気回復は最優先課題でしょうが、皆、ちょっとマイナス志向になりすぎているような気もします。私がこんなことをいうと、「まだ、君は何も知らないから」と言われてしまいますが、政治には大いに夢を持って取り組んでいきたいと思います。
[麻生]
そう、その通り。あなたのような若い政治家には、柔軟な発想で夢のある政策をどんどん提言してほしいな。
[小渕]
自民党はこれからの国民の“夢”をできるだけ政策に反映し、実現するために政務調査会に「夢実現21世紀会議」を設置しています。麻生政調会長が議長を務められていますが、私はそこの「自然にふれあう夢実現検討委員会」の委員長をやらせていただいています。
[麻生]
秋のキャンペーンで全国から募集した「みんなの夢」、ずいぶんたくさんの応募がありましたね。大賞16編が決まったけれど、ほかにも夢のある提言がいろいろありました。自民党は国民と一緒に政治を進めていきたいと思っているので、小渕先生にもよろしくお顧いします。群馬は農業に従事している人が多いが、あなたは農業問題にとくに力を入れているそうですが頑張って下さい。

農村の振興は環境保全につながる


[小渕]
WTO(世界貿易機関)は、グローバリゼーションの名の下、国際化を推し進めていますが、日本の農業は食料を提供するだけでなく、大気の浄化、気候の緩和といった国土・環境を保全する役割や、洪水の防止、水資源の涵養、土壌浸食の防止など数々の多面的機能を持っています。こうした農業の多面的機能を人工的な設備に置き換えて計算したら、それこそ何十兆円という莫大な金額になるはずです。農業は単に経済の効率性の面からだけで考えるわけにはいかない性格のものだと思うんです。麻生政調会長には、農業が持続的に発展できるように、その基盤となる農村の振興にもこれからお力をお貸し下さい。
[麻生]
何だか陳情されているような気になってきたな(笑い)。確かにグローバリゼーションというのは、ともすれば強者の理論が罷り通ることになってしまう。強者の理論で利益を得る人たちと、失う人たちの力関係を十分に考えなければなりません。その国にはその国にあったやり方があり、日本としては断固、守らなければならない構造や伝統もある。構造改革と日本経済を考える時には、どれを守り、どれを革新するか。保守するには革新しなくてはいけないこともあるだろうが、政治家はとくにそれを見抜く目を持たなくてはいかんと思いますね。
[小渕]
これから、私もいろいろ勉強していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。きようは、お忙しいところを本当にありがとうございました。

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